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三河の住人の庵

三河の住人の庵

寛政重修諸家譜 大久保忠世

大久保忠員ー忠世ー忠隣ー忠常ー忠職

忠員
(忠世、忠佐、忠教の父)
(永正八(1511)年生まれ)

甚四郎 平右衛門 宇津左衛門五郎忠茂が三男。母は某氏。


天文六年広忠卿難を避て伊勢國におはし ますのとき、忠員兄新八郎忠俊と共に力 をつくし、ふたゝび岡崎城にむかへ入たて まつる。十一年松平藏人信孝反す。この とき弟彌三郎忠久は信孝に属せり。忠員忠俊と議して忠久をして広忠卿に歸順せ しむ。これより信孝が家人おほくしたが ひたてまつる。弘治元年今川義元駿三兩國の兵をして蟹江の城をせめしむ。嫡男 七郎右衛門忠世、次男治右衛門忠佐をよび 一族五郎右衛門忠勝、阿倍四郎五郎忠政、 杉浦大八郎五郎吉貞、某男八郎五郎勝吉 とゝもに衆にさきだちてすゝみ、槍を接 へて奮戦す。敵兵敗して城に退く。これ を世に蟹江の七本鎗と稱す。永禄三年三 河國刈屋十八町縄手の合戦に敵あまたすゝみ來る。忠員父子一族等をよび同僚とゝもにつとめ戰てこれを敗る。六年本願寺門徒一揆のとき、上和田の砦を守りてこれを防ぐ。天正十年十二月十三日死す。年七十三。法名了意。三河国尾尻の長福寺に葬妻は西三條右大臣公條が女



忠世
(忠員の嫡男)

新十郎 七郎右衛門 母は公條が女。 

天文元(1532)年三河國上和田郷に生る。十五年三河國渡村の戦に、忠世十五歳にしてはじめて軍に臨み、敵と鎗を接る事 一日に兩度なり。十七年同國山中の合戦に一族とゝもに敵をうち、これを 破る。十八年安城の城をせむるのとき、しばしば敵と戰ひ、首級を得たり。弘治元年父にしたがひ蟹江の城をせめ、鎗をまじへたゝかひを励す。永禄三(1560)年尾張國石瀬三河國刈屋等の戦にも戦功あり、六年本願寺の門徒等一揆のときは、一族とゝもに上和田の砦にありて防戰す。東照宮にも岡崎よりしばしば 御勢を出され上和田を救はせたまひ、五郎右衛門忠勝が宅地の前の堤に御馬を留めらるゝごとに忠世が妻手づから飯をとゝのえてたてまつる。七年正月十一日一揆等相議して上和田を抜べしと未明より圍み攻、忠世一族とゝもに戰をはげまし、これを防ぎ創をかうぶる。のち親族と議して一揆の輩を歸順せしめ乱ことごとく平ぐ。十二(1569)年正月遠江國掛川の城攻に城將今川氏真、久野三郎左衛門宗能が家臣に通じて夜中密に兵を出し宗能を討むとす。宗能この事を告たてまつるにより、大須賀五郎左衛門康高、本多豊後守広孝、松平左近眞乘、水野惣兵衛忠重と共に仰をうけて兵を率い宵より掛川城門の側にふし、城兵のいづるを待て大にこれを破る。これよりさき御旗本の諸士をわかちて、酒井左衛門尉忠次石川日向守家成が組に属せらる。ときに忠世等は一手役の將となりて先鋒の事をうけたま はる。元亀三(1572)年十月遠江國一言坂の合戰に、武田が兵進で競ひをふ。忠世等殿してつとめ戰ふ。これによりて兵を全うして濱松にかへる事を得たり。十 二月二十二日三方原の役に、忠世が兵敵と相接し、先鋒を追しりぞくといへ ども、大敵又競ひきたり、我軍殆利をうしなふ。忠世其しりへよりはせ來りて告たてまつりていはく、某常に遇するところの諸將と相約し、各退散するところの兵士を率いて一所にあつめ、 一たび敵を防がむ。君はすみやかに浜松城に入御あるべしとなり。東照宮忠世が言にしたがはせたまひ、御旗三本をたまふ。忠世すなはち犀崖の西にいたり、くだむの御旗を挙しかば、敗兵これを見て競ひ集る。敵なをしたが ひ來るといへども、忠世兵士に下知して鉄砲をはなちて遮り撃しむ。こゝにおいて敵追事あたはず。その夜濱松城 にをいて諸将を集めて謀を問せたまふ。忠世すゝみ出て、かゝる大敗にいたりていたづらに守るときは、敵ますます我を凌ぐべし。ねがはくは某諸部の鉄砲を集め、夜ふけて敵を劫かさむと言上す。則これを御ゆるしありしかば、忠世軍中の鉄炮を集るに百挺に過ず。天野康景、近膝秀用等も銃士を率いて相從ふ。五更のころほひ忠世等信玄が陣せし犀崖にいたり、旗本にむかひて鉄炮をはなつ。敵軍騒動す。信玄どろきて勝てもおそろしき敵なりとて、濱松をせむるの謀をとどむ。天正二(1574)年四月六日東照宮遠江國乾より軍を還さるゝのとき、天野宮內右衛門景貫兵を催し、我兵險隘にいたるをうかがひ、競ひきたりてこれを討。忠世水野忠重ともに殿となり、且たゝかひ、 且退きて 大久保村 にいたる。忠世が弟勘七郎某及び堀小太郎某、鵜殿藤五郎某、小原金內某等すべて二十餘人防戰て討死す。忠世をよび忠重も反し、あはせて奮戦す。このとき忠世が隊下杉浦宗左衛門政吉創をかうぶる。忠世馬より下これに乗てしりぞくべしといふ。政吉眼を瞑していふ、將師たるものみだりに下馬すべからず、某ごときは數人死たりとも妨なし、大將馬を失ひ、もし事あらば誰か諸軍に下知を伝へむ、且我この馬に乘て生を全うすとも、何の面目あらむと固く辭 してのらず。忠世すべきやうなくして 汝のらば乘べし。乘ずば捨よと云て強て馬をあたへ、歩行立となりて引退く。 從者兒玉甚內某たち歸りて、政吉をたすけのせいそぎ忠世にしたがふ。路隘くしてわづかに一騎を通し、かたへは 崖にして谷深し、敵なを跡を躊て來る。 士卒列をみだしてはしり逃。忠世これ に壓され過ちて岸下に轉び落、家臣兵藤彌惣兒玉傳左衛門をよび犬若といへ る小者、とびをりて忠世を扶く。ときに敵數人馳きたる。從士三人善戰ひ、 あるひは討死し、あるひは苦戦してこ れを防ぐ。忠世からうじて岸を登り、 むかふ敵の兩股をきる。一人の敵お りあひ、忠世かれがために槍つけらるといへども、倒ながら股をなぐ。敵兵また傍よりすゝみきたるを、これもその股をきりおとす。この際に從士等あつまりしかば、敵兵退散す。このとき忠世が帶るところは、家に傳ふる利刀にして老の杖といふ。危にのぞみて三人の兩股を斬、これよりして六股とあらためよぶ。三(1575)年五月長篠の役に、織田右府の兵柵外にいでゝすでに戰をまじへむとす。忠世は所存ありて 騎馬を設けず。みな步卒となして前陣にあり。弟忠佐はせきたりていはく、 今日の軍に右府の兵をして先駈たらしむるにをいては、我君の恥なり。すみやかに足輕を出して合戦をはじむべしと。忠世すなはち兵をわかちて忠佐に授く。時に成瀬吉右衛門正一日下部兵右衛門定好におほせて、諸部の士をえ らび騎馬をとゞめて步兵となし、鉄炮をもたしめ忠世が組におもむかしめたまふ。こゝにをいて忠世忠佐諸手の鉄炮をつかさどり、馬をはせて下知をつ たふ。敵兵入代りて戦をいどむこと凡十三度、その鋒さきするどしといへど も、忠世兄弟備を全うして退かず。頻に鉄炮を發たしめ急にすゝみ戰ふがゆへに、勝賴の先陣既に敗る。これに氣を得諸軍相次で戰を励ませしかば、武田勢大に敗走す。右府はるかにのぞみて金の揚羽の蝶と淺黄の石餅の指物したる武者二騎、衆兵を率いて馳せめぐるさま、わが軍かとすればたちまち敵間にあり敵かとみればまた我軍にあり、其衆を進退する事は、臂を使ふがごとく、其敵にはなれざることは、膏薬をつけたるがごとし。駆引殆鬼神を 欺くと歎美し、使を東照宮の御陣にはせて其姓名をとはるゝのところ、金の蝶は譜第の士大久保七郎右衛門忠世、淺黄の黑餅はその弟治右衛門忠佐と申ものなりとこたえさせたまふ。右府 これをきゝ東照宮の士をやしなひたま ふ事、我をよぶところにあらずと感ず。 六月兵を遠江國にすゝめて二股城をせ めらる。城將蘆田下野守信守固く守り て降らず。忠世鈞命をうけて蜷原の砦にこもり、武備をしめして二股に逼 る。七月忠世城中喪あるをきゝて濱松 に言上し、榊原康政とゝもに急にこれを攻、城將蘆田右衛門佐信蕃父に継で 城を守るのところ、忠世に就て質をさゝげ城を避むことをこひ、十二月二十 三日信蕃終に甲斐國に退きしかば、すなはちこの城を忠世にたまひ、これに住す。このとき黑柳孫左衛門正利、同金 十郎某を附属せられて家臣となす。四(1576)年ふたび乾に兵を発し天野景貫を攻らる。景貫潮見坂の險により、鉄炮を發しこれを拒ぐ。我軍利をうしなふ。 東照宮忠世をめして、汝よくこの地の案内をしる。すみやかに石峯にのぼりて鉄炮を放つべしと仰あり。忠世則士卒を率い其峯にのぼり、城中を見おろして頻に銕炮を放つ。景貫ふせぐこと あたはずして潮見坂を棄て鹿鼻にうつ る。このところまた險隘にして俄に陥るべからざるにより兵をおさめら るゝといへども、忠世ひとりかの地に 留り、究竟の勇士二十人をして常に形勢をうかがはしめ、時宜をはかりてこ れを攻、居こと四年にして山中ことご とく平ぐ。九(1581)年三月我軍高天神の城を 圍む。城兵のがれさる事あたはず。ときに忠世が守るところの地、山高く谷深きが故に險をたのみ、弟平助忠教を加へわづかに十九騎をして守らしむ。二十二日の夜二更にをよぶころ、城将岡部丹波守長教横田甚五郎尹松等林谷より退れいづ。忠数兵をすゝめてこれを討とる。其餘のがれさるものあり といへども、忠世が手に獲るところの 首六十四級に及べり。十(1582)年二月駿河國に進發あり。忠世仰をうけて蘆田信蕃を諭す。信蕃ついに田中の城を避て甲斐國に走る。このとし織田右府生害により、甲信兩國靜ならず。石川長門守康通、本多豊後守康孝、其男彦次郎康重等とゝもにかの地にいたる。忠世信濃國佐久郡に人て諏訪小太郎頼忠を歸 服せしめ、また小笠原掃部信嶺及び大草知久下條等の人々を御味方に属せしめ、又蘆田信蕃に本領をたまはり御先手とせば、信濃國はたやすく御手に入べきよしを言上す。八月忠世酒井忠次、 大須賀康高、本多康孝、其男康重、石 川康通、岡部正綱等ともに三千餘騎 を率るて乙骨に屯し、信濃國にうち入べき御下知を待のところに、忠世が郎從石上兎角某蘆田の小屋よりしのびて八嶽をこえ來り、北條氏直四萬三千余騎を率いて鍛冶原に陣す。こゝを去事 わづかに一里ばかりなりとつぐ。又乙骨長太郎左衛門といへる者も來りて、氏直明日かならず兵をす時めてこゝに逼らむといふ。よりてこれをうかがはし むるに、其言にたがはざりしかば、いそぎ東照宮の御陣営に告たてまつるのところ、すみやかに兵を新府におさむべきむね仰下さる。よりて諸將議して兵を還さむとす。このとき酒井忠 次忠世と殿をあらそひて時をうつす。 諸將和解して忠次をまづ退かしめ、忠世岡部正綱等ともに六隊、各列を整へ、備を乱さずして靜に引退く。乙骨 より若神子にいたるまで其間七里、敵 軍四萬餘兵我軍をしたふ。我軍わづかに三千、大軍をものゝかずともせず、 敵先を取きらむとすれば、六隊ふみとどまりて旗をたてこれをむかへ、ある ひは軽卒をして鉄炮をはなたしむ。忠世機を見て後軍より馬を出せば、本多康孝も前軍より馬をかへし、一時に衆をひきあぐ。敵ついに慕ふ事あたはずして若神子に兵をいる。我軍もその夜二更のころほひにいたりて新府に兵をおさむ。すでにして濱松に御凱旋のとき忠世等鈞命により、留りて信濃國 を平治す。十一(1583)年五月十九日武田の家臣屋代左衛門尉勝永、室賀兵部大輔某、鹽崎六郎二郎某御き下に属すにより、 本領 安堵の事忠世がはからひにまか せ、國境地利のことは屋代、室賀兩人の意にしたがふべきむね、御書を下さる。 この年松平源十郎康國とゝもに同國小諸城を攻てこれを陥す。十二(1584)年忠世仰をうけ、信濃國の士を率ゐて上杉景勝が軍に備ふ。この年小牧御陣に天野景貫が旗下渡邊三左衛門某等を御家人と なされ、忠世が手に附属せらる。三左 衛門某はのち家臣となる。十三(1585)年八月 鳥居元忠、平岩親吉等とおなじく、眞田安房守昌幸が籠れる信濃國上田城を 攻、閏八月二日の合戦に我軍利をうし なふといへども、忠世親吉と共にふみとどまりて矢泡をはなちつとめ戰ふ。 兩將の臣たすけ來りて引退く、元忠親吉藤森にて軍をかへし備をたつ。昌幸なをしたひ來りてすゝみうちしかば、 元忠防ぎかねて終に引退く。忠世十四五騎にて馬を留め、家臣乙部藤吉某、本多主水某矢をはなち、黑柳孫左衛門正 利鉄炮をうちてこれをふせぎ、加賀川 まで退く。我兵討死するもの三百餘人。 時に家臣桑原源助かへし合せて敵をうち取。忠世なを踏留りて退かず。 金の蝶の羽の指物のかがやくを見て、弟平助忠教かへしあはせ、忠世が旗を 川上にたつ。これを見て味方所々よりはせあつまり百餘騎にをよびしかば、 やがて岡に上る。昌幸も川端に陣を取、 水を隔ること三十間ばかり、各鎗をと りて對陣す。こゝにをいて味方の勢またはせ集めて三百餘人にをよぶ。忠世おもへらく、昌幸今城をはなれてこゝにあり、我川をわたり彼が後を遮りうたば、城に入事あたはじと、則使を元忠親吉が陣にはせてこのよしをつげ、 某が跡より川をわたさるべしといふ。 兩將肯ぜず。忠世手をむなしくして止む。昌幸も兵を引て城中にいる。昌幸が川をわたらざるは、忠世が川端に備を設るによれり。このとき忠世源助を使として浜松にたてまつり戦の状をつげ、且忠世馬を賜はらむ事をと、こひたてまつりしかば、則御書を下され、馬をたまひ、源助にもその功を賞せられて黄金をたまふ。三日忠世柴田康忠とゝもに信濃の兵をひきいて丸子の城を攻べしとて、筑摩川をわたり八重原にいづ。昌幸これを見て海野町をいで手白塚に陣を取、忠世康政をして元忠親吉が陣に つかはし、二將筑摩川に兵を出さば某は岡部長盛、松本康國、諏訪賴忠と兵を合せ禰津原に敵を追出して、悉討取 べしといふ。元忠親吉またこれにしたがはず。往反の間昌幸兵を引て退く。 忠世怒ていはく、わが兵たらざるがゆへに籠中の鳥をにがしたりと。これよ り八重原に兵を備へ敵の隙をうかがふ。二十八日御書を忠世にくだされ、 家臣金澤杉千代正實、松井孫一郎某丸子河原の戦に、敵陣にせまり首級を得 し功を賞せらる。十一月石川数正京師に出奔す。このとき忠世小諸城にありしが、濱松よりいそぎまいるべきむね仰下さる。忠世おもへらく、今この城をすて濱松にゆかば、数年の功労一時に盡むか。昌幸いまだ降らず。且信玄が盲子龍芳あり。上杉景勝もまた時に乗じて甲斐国に入ば甲信安きといふべからず。留守の器を選びて浜松におもむくべしと。これをえらぶに人なし。弟忠教をちかづけていふ。われ鈞命をうけて甲信兩國に入のはじめより、命を君にたてまつる。幸にしてこれを免かれ、今濱松にかへる。汝我に一命をあたへ、かはりてこの城を守るべしと。忠教こたへて家兄留守の事を 託したまはむに、恩賞を先だてたまはば誰か君に代りて守るべしといはむ。 今命をまいらせよとおほせあるうへは、我解するところにあらずとて、則許諾す。忠世こゝろを安むじて濱松に おもむく。十八(1590)年豊臣太閤北條征伐のとき、東照宮も兵を率ゐて御進發あり、忠世したがひたてまつる。小田原落城ののち太閤忠世をめして其子城小山をあたふ。八月東照宮關東御入國のとき、小田原城をたまひ、四萬五千石を領す。文禄三(1594)年九月十五日小田原城にをいて卒す。年六十二。日脫了源院と號す。その地の大久寺に葬る。 室は近藤左近右衛門幸正が女


忠隣
(忠世の嫡男)

千丸 新十郎 治部少輔 相模守從五位下 剃髪號道白 母は幸正が女。

天文二十二(1553)年上和田郷に生る。永禄六(1563) 年本願寺の門徒一揆のとき、一族等上和田の砦にありて逆徒を防ぐ。東照宮これを援けたまはむとてしばしば御馬をかの地によせらる。ときに忠隣を御覧ありてこの子を養ひ近習の小臣たら しむべしとの仰により、すなはちしたがひたてまつり 岡崎城 におもむく。時に十一歳 十一年(1568)三月遠江國堀川の城をせめたまふのとき、忠隣年十六、衆にさきだちてすゝみ、城中に入て首級を得たり。十二年(1569)正月掛川の城攻に天王山に をいて叔父忠佐鎗をもつて敵をつき. 忠隣をよびて首をとるべしといふ。忠隣がいはく、これ我勇にあらず、何ぞ他の力を借むと、すなはち馳て敵陣に入、首一級を討とる。この年天方の役にも高名す。元亀元(1569)年六月姉川の合戦に東照宮諸軍に御下知を伝へられ、敵を討て敗走せしめらる。このとき淺井は長政が一手の人数傍にあるをみて、本多忠勝御旗本の士に向ひ、これをうてといふ。忠隣をよび十二騎の士すなは ち馳いでて其陣を破り、敵を討て御旗本にかへる。朝倉義景が兵また競ひ きたる。忠隣等すゝみ戰て首級を得たり。三年(1572)十二月三方原のたかひに、 我軍利を失ひしりぞかせたまふの時、 忠隣步行にてしたがひ御馬のかたはらをはなれず。小栗忠藏久次敵の馬を取て馳来る。東照宮御覧ありてその馬を忠隣に授くべしと仰ありしかば、忠隣やがて其馬に乘て供奉す。濱松にいたらせ給ふのときは、随從の士五六人にすぎず。忠隣その一人たり。のち泰 行職に列し、御分國をよび他國往來の奉書等 をあつかり沙汰す。 天正三(1575)年小山諏訪原の途中にをいて、忠隣敵と戦をまじへこれをきる。十二(1584)年四月長久手の戦ひに東照宮みづから御ものみ として先陣にすゝませたまひ、御旗本は忠隣に命ぜられて、みだりに動くべ からずと御下知あり。しかれども諸士 いきほひに乗じすゝみたかふ。忠隣敵陣にはせ入、鎗を取て相たゝかふ。 池田勝入が從士土肥権右衛門某こだかきところに上り敵を待。忠隣馬をはせ て土肥と鎗をまじふ。土肥すなはち忠隣をつく。忠隣水田の中におつるといへども、おきあがり刀を抜て土肥を斬むとす從卒はせ來りて土肥をたすけ、 忠隣が馬に乗しめて引退く。兩陣和解の 後土肥、忠隣が勇武を感じ、かの馬にをきたるところの鞍をゝくる。子孫相伝へてこれを江の古鞍とよぶ。この役に忠隣が從士八人戦功あり。十三(1585)年十二月千貫文の地をたまふ。十六(1588)年從五位下治部少輔に叙任す。このとき忠隣とゝ共に叙爵し、豊臣氏をうくるもの数人、これ豊臣太閤の申請ところなり。 十八(1590)年關東御入園のとき、武藏國羽生城をたまひ二萬石を領す。文禄元(1592)年二月肥前國名護屋に御進發のとき、忠隣 病によりてしたがひたてまつらず。東照宮御書を下されてこれをたづねさせたまふ。かの地に御在陣のあひだ御麾下の士の行儀よからず。老臣等これを制すれども聴ず。みないはく、忠隣あらざるがゆへなりと。十一月十一日また御書をたまひ、病癒ばすみやかに名護屋にまいるべきむね下されしかば、 忠隣江戶を發してかの地にいたる。そのち諸士の行儀をのづから 正に歸す。二(1593)年十二月仰によりて台徳院殿に 附属せられ、老職となる。三年(1594)年父が遺領をたまひ、さきにたまふところを合せて六萬五千石を領す。四(1595)年台徳院殿聚楽の御館におはしますのとき、忠隣 つねに御かたはらをはなれず。五月豐臣秀次かつて太閤と隙あり。台德院殿を質とせば東照宮をのれをたすけたまはむ事をおもひ、ある日未明に使をま いらせ台駕を寄られむことをこふ。忠隣はやくその謎を察し、いまだ寝所に おはするのよしをこたへ、すみやかに台駕を伏見に促す。秀次の使またいたる。忠隣がいはく、公兼約ありて夙に伏見におもむかれ、臣をとゞめて遅くこれを謝せらるとこたへ、御館を守り てこれが備をなす。秀次聞て大に侮といへどもをよばず。慶長三(1598)年八月豊臣太閤他界の隣ち伏見騒動す。このとき台徳院殿かの地におはしますにより、 忠隣事變あらむことを慮り、をのれが輿馬をたてまつりしかば、ひそかに伏 見をたせたまふ。故に人これをしら す。江戶にかへらせたまふのゝち東照宮忠隣が善謀を御感あり。この年太閤の遺物盛光の刀をあたへらる。五(1600)年六月東照宮上杉景勝御征伐として大坂を御發あり、沼津城にいたらせたまふのとき、忠隣本多正信ともに台徳院殿の仰をうけてむかへたてまつる。七月下野國宇都宮に供奉す。ときに石田三成逆謀のきこえあるにより、兩御所東征をとどめたまひ台旗をかへさる。この月相模守にあらたむ。八月台徳院殿中山道より御上洛の時、真田昌幸が籠れる上田の城を攻たまふといへど も、堅固にして陥らず。故に忠隣本多正信とゝもに指揮して兵を罷、軍を西 にすゝめらる。十一月東照宮閲國をし て有功の諸將にたまはるべきやの事、 かつ本城は關東しかるべきか、關西し かるべきかのことを、台徳院殿にとは せたまふ。忠隣、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、本多正信とゝもにこの御使をうけたまはりて兩御所に往復す。この年東照宮大坂の西城におはしまして忠隣をめされ、二公達のうちいづれが嗣君にさだめらるべきと御諚あり。忠隣謹で台德院殿御継嗣たらむこと論な し、臣いまだその御失あることを見ずとこたへたてまつる。後日また忠隣をよび井伊直政、榊原康政、本多忠勝、平岩親吉、本多正信等を召れ、嗣君のことをとはせ給ふ。六人これを議す。 正信がいはく、参河守秀康卿は武勇揚?たり。嗣君たるべしとなり。直政、忠勝親吉等各其おもふところをいふ。忠隣がいはく、これみな我大君の賢息なり。弓馬の道をもつてこれを論ずるにをよばず。台德院殿智勇かね備りたまふ、天下を譲りたまはむことこの君ををき て誰かあるべきと。康政も又忠隣がいふところにおなじ。すでにして六人座を列ねて御前に祇候す。ときにまた仰に、正信まづおもふところをのべよとなり。正信言上すること前議のごとし。 次に忠隣にとはせたまふ。忠隣もまたさきのごとく對へたてまつる。ときに 御氣色ありて正信と忠隣をして問答せ しめらる。正信またのべていはく、秀康卿嗣君たるべしとなり。忠隣いよいよ前議をまもりていはく、國郡を攻取ことは武勇をもて本とす、天下をお さむるにいたりては文武兼備にあらずしてはよくし難し、臣すでに仰をかうぶり、台徳院殿につかえたてまつる、この故をもつて贔負したてまつるにあらず、もし國郡分封の事には贔負のともあらむ、天下授受のことにをいて は御子孫長久の基なり、何ぞ私心をさ しはさむべきや、臣おもふところ貳心 なしとて、すなはち誓言をたてまつる。このときおほせに、汝等まづ退出すべ し、なをおもひはかりたまふべしとな り。一兩日をへてまた六人を御前にめされ、忠隣が言可なり、今これにしたがはせたまふのよしおほせありて、嗣君こゝにをいて決す。六人俯伏して、台命を拜す。六(1601)年二月小田原をあらた め、上野國高崎にをいて十二万石をた まふといへども、忠隣故ありてこれを醉す。九月珠姬君前田利常に婚儀のとき、御輿をくりの事をうけたまはりて越前國金津にいたる。七(1602)年佐竹右京大夫義宣が所領常陸國をおさめらるゝのとき、本多正信ともに鈞命を奉じてその地におもむき制法を沙汰す。八(1603)年七月千姫君豊臣秀頼のもとに入輿のとき、また台命をうけてこれををくりたてまつる。十(1605)年四月將軍宜下御拝賀のとき供をつとめ、十九(1614)年十月六日 忠隣が城に渡御あり。忠隣甜茶を献す。 十六(1611)年東照宮江戸にいたらせたまふのとき、十月九日忠隣が居城小田原に渡御あり。ときに嫡子忠常病痾おもきよしきこしめし、忠隣をめされてその病狀をとはせられ、懇遇をかうぶる。十八(1613)年十二月二十六日台徳院殿忠隣をめされ、近年京都耶蘇宗門の徒邪法をすゝめ、年を追て群をなし、人を惑はしむるの害甚し。汝かの地におもむ きこれを糾問し、もしその事明察しが たきにをいては、また長崎につかはさ れ、西國をたださるべきのよしおほせをかうぶり、十九(1614)年正月十七日京師にいたり藤堂高虎が邸に宿す。ときに邪蘇宗門の師四條の二寺にあり。忠隣急にかの二等を焼しめ、その徒を捕ふ。 その師二人は西國に遁れ去る。二十日職を罷められ、所領を没収せらるゝのむね、京師にをいて板倉伊賀守勝重おほせをつたふ。忠隣謹て命をうく。これにより洛中巷說をつたへて静なら す。忠隣きゝて兵器をことごとく勝重がもとにをくる。こゝにをいて巷說やむ。二月朔日家臣等を関東に返し、のち從者わづかに四人を具して京都を発し、近江國栗太郡中村郷に蟄居す。この時其地にをいて五千石を賜ふ。三月忠隣南光坊天海に就て、かつて不忠の志を懐ざるのよしを愁訴す。天海憐みて訴状を駿府にたてまつる。忠隣中村郷に居事三年ばかり、こふて同國佐和 山の城下石崎にうつり住す。曾て兩御所洛に入たもふ毎に、忠隣書を老中に寄て御起居をとひたてまつる。元和二 年(1616)四月東照宮の薨御を聞て、剃髪し道白と號す。寛永五(1628)年六月二十七日死す。年七十六。 室は石川日向守家成が女。

忠常
(忠隣の嫡男)

新十郎 加賀守從五位下母は家成が女。
天正八年遠江國二股城に生る。十八年豊臣太閤北條氏政征伐のとき、台徳院殿に供奉して小田原におもむく。時に十一歳 文禄三年御前にをいて元服し、御諱字を賜はり忠常と名のる。慶長五年上杉景勝御征伐のときは、父忠隣諸事の奉行たるにより御前をはなれず。よりて忠常父にかはりてその兵を率い、先鋒に列して下野國宇都宮にしたがひたてまつる。ときに石田三成反逆のきこえありしかば御旗をかへされ、眞田昌幸が籠れる上田城をせめらる。この時 忠常が手に屬せる杉浦惣左衛門政吉軍令を犯すにより、忠常も御氣色をかうぶる。九月七日政吉腹切て罪に伏す。故に忠常恩許ありて從軍す。このとし從五位下加賀守に叙任し、のち武藏國埼玉郡奇西にをいて二万石の地をたまふ。十年將軍宣下御拝賀のときは、井伊直孝と最末に列して供奉を勤め、且御沓を役す。十六年十月十日父にさきだちて小田原に卒す。年三十二。日性如法院と號す。葬地忠世に同じ。 室は奥平美作守信昌が女。


忠職
(忠常の嫡男)

初季任 忠任 忠能 忠◼️ 忠季 仙丸 新十郎 加賀守 從五位下 從四位下 母は上におなじ。
慶長九年生る。十六年十二月はじめて東照宮、台徳院殿にまみえたてまつり、父が遺領をたまひ、大猷院殿に附屬せ らる。時に八歳 十九年二月、先に祖父忠隣罪かうぶるといへども、忠職幼年たる により恩許ありて封地に蟄居す。寛永二年赦免あり。三年御上洛のときしたがひたてまつり、十二月五日從五位下加賀守に叙任す。九年正月十一日三萬石の加恩あり、奇西をあらためて美濃國加納の城を賜ひ五萬石を領す。十一年にのぼらせたまふのとき、封地州俣にをいて盃酒を献じ、京師にしたがひたてまつる。十四年正月おほせをうけたまはり本城の普請をつとむ。十六 年三月三日加納を轉じ、播磨國明石に うつされ、二萬石の地をくはへらる。慶安二年七月四日新恩一萬三千石をたま ひ、封を轉じて肥前國唐津にをいてすべて八萬三千石を領す。明暦二年七月 尾張中納言光友卿家臣塚本彌五兵衛某をめしあづけられ、のちこふて家臣とす、寛文七年十二月二十八日従四位下 に昇り、八年四月十一日小笠原遠江守忠雄とゝもに九州を鎮護すべきむね仰をかうぶる。十年四月十九日午す。年六十七 日禅本源院と號す。遺骨を京師の本禅寺に葬る。室は松平下総守忠明が女。


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